ドイツ・ミュンヘンの世界的なバイオメディカル研究機関 Helmholtz Munich の研究者たちが、人間の意思決定や行動を驚異的な精度でシミュレーションできる AI モデル「 Centaur (ケンタウロス)」を開発し、 2025 年 7 月 2 日に権威ある科学誌 Nature で発表しました。このモデルは、心理学実験から得られた 1,000 万件以上の膨大な選択データを学習し、人間のような判断を再現できることが特徴です。
Helmholtz Munich は、ドイツ最大の科学組織「ヘルムホルツ協会」の一部で、約 2,500 人の研究者が在籍するヨーロッパ有数のバイオメディカル研究センターです。環境要因や生活習慣による疾患の解明に取り組んでおり、特に糖尿病、肥満、アレルギーなどの研究で知られています。同機関は AI やバイオエンジニアリングを活用した革新的な医療研究でも注目を集めています。
Centaur は、 Meta 社の大規模言語モデル Llama 3.1 を基盤に、「 Psych-101 」という特別なデータセットで学習させた AI です。このデータセットには、 6 万人以上が参加した 160 種類の心理学実験から得られた 1,000 万件以上の人間の選択データが含まれており、ギャンブル、記憶ゲーム、道徳的ジレンマ、問題解決など多様なタスクをカバーしています。
最も注目すべきは、 Centaur が従来の心理学モデルを大幅に上回る予測精度を示したことです。これまでの心理学理論(プロスペクト理論や強化学習モデルなど)では説明できなかった複雑な意思決定や、学習データに含まれない新しい状況でも、人間らしい選択を高い精度で予測できることが確認されました。
さらに驚くべきことに、 Centaur の意思決定パターンが実際の人間の脳活動パターンと自然に一致する傾向が観察されました。これは、このモデルが単に行動を真似しているだけでなく、人間の認知プロセスの本質的な部分を捉えている可能性を示唆しています。
応用分野は広範囲にわたります。心理学研究では、実際の被験者を使わずにコンピューター上で実験を行い、新しい理論を検証できるようになります。医療分野では、うつ病や不安障害などの精神疾患を持つ患者の意思決定プロセスをモデル化し、個別化された治療法の開発に役立てることが期待されています。
教育やマーケティング分野でも、個人の学習パターンや消費者行動を予測して、より効果的なサービスを提供できる可能性があります。研究チームは今後、データセットに年齢、性別、文化的背景などの詳細情報を追加し、さらに多様な応用を目指しています。
研究チームは透明性を重視し、 Centaur とデータセット Psych-101 を Hugging Face でオープンソース公開しており、世界中の研究者が自由に利用・改良できるようになっています。また、データの主権を保護するため、クラウドではなくローカル環境でモデルを運用できる設計になっています。
ただし、一部の専門家からは慎重な見方も示されています。現在のモデルは主に学習・意思決定領域に特化しており、社会心理学や文化的差異はまだ限定的です。また、被験者の多くが西洋・高学歴層に偏っているため、今後より多様な人々のデータを収集する必要があるとの指摘もあります。
研究チームは、このモデルが「人間の心を完全に再現する」わけではなく、あくまで行動パターンの高精度な予測ツールであることを強調しています。しかし、心理学と AI の融合による画期的な成果として、人間の意思決定メカニズムの理解や新たな治療法の開発に大きな可能性をもたらすと期待されています。
今後は実験数を 5 倍に増やした拡張版データセットの開発や、モデルの内部構造をより詳細に分析して特定の認知プロセスとの関連を解明することが計画されており、AI が人間の心をどこまで理解できるかという根本的な問いに新たな光を当てる研究として、世界中から注目を集めています。